革新的なITで、「日本の元気」に貢献したい
新 恭一氏:アイ・エス・クリエイト(株)

新氏

アイ・エス・クリエイト株式会社は、メビック扇町の第一期生。1997年に創業、2003年から2005年までの2年半をメビック扇町で過ごした。
「チャンスは誰にもたくさんやって来ているもの。それを思い切ってつかむことが大事」と代表取締役の新恭一氏。同社の転機には、必ずといっていいほど思いがけないチャンスを掴んでモノにしている。強運の持ち主、新氏に創業からこれまで、そして今後の展望を伺った。

日本の中小企業のIT化をサポートすべく起業

アイ・エス・クリエイト株式会社は、情報システム構築・情報システム設計を行う会社。大手電機製造業、機械設備工事業、流通業、医療法人など、さまざまなクライアントに対して、IT導入コンサルティングや情報システム設計を行っている。
新氏が起業したのは1997年のことだ。時代は、やっと大手企業でパソコンが使われるようになったころ。「当時の業務用コンピュータはかなりの高級品で、中小企業にとっては容易に手が届かないものでしたが、比較的安価なパソコンを使ってIT化が進めば、中小企業のビジネスが変わるのでは?と光が見えてきたような時代でした」。
当時、大手メーカーで一台ン億円という大型コンピュータを使ってシステム開発をしていた新氏は、近い将来、低価格のコンピュータの開発に伴って中小企業のIT化が急速に進むであろうことを確信していた。「今後は中小企業でもコンピュータ導入は進むが、活用方法のコンサルティングニーズが高まるに違いない。自分の今までに培ったコンピュータの知識や技術を世の中に広く役立てたい」。中小企業をバックアップすることで日本経済を元気にしたい、と独立を決めた。

「まるでギャンブラー」だった、メビック時代


メビック時代、最初に採用したメンバーと。あれから10年が経とうとしている。

創業当時の本拠地は、出身地の愛媛県松山市だった。ただ、創業前の勤務地の関係で、クライアントのほとんどは大阪の企業。生活は松山で、仕事は大阪でと行ったり来たりの生活が続く。仕事は順調に増え、ほどなくして1人では限界が来た。
「人材を採用するために大阪での拠点が必要になったんです。そこで見つけたのがメビック扇町でした」。
入所当初からメビックの中でも一番大きな部屋に事務所を構え、「いつも着実に、計画的に事業を展開しているという安心感があった」とメビックのスタッフ。だが実は、「かなりのギャンブルもあった」という。
「ある日、大手銀行の営業マンが『融資します』とやってきて。社員を採用したいとは思ってはいましたが、でも借金しても返すアテもないし…と迷ったんですが、無担保だし返済が出来なくなったら夜逃げしてしまおうと思って借りることにしたんです(笑)」。そのお金で求人広告を出し、社員を3人も採用した。「本当は1人のつもりだったんですが、いい人が3人もいて。仕事が入るアテがあったわけでもないのにね」。
その直後だった。これまでにない大口の仕事がドンと来たのは。「人材を入れていなければ断わるしかないような大きな仕事でした。社運をかけて毎日必死に頑張りました。採用した3人のうち2人は未経験者だったので、呆然としていましたね」。
しかし、その仕事が一つの実績となって会社は目に見えていい方向に向かい始める。「今思うと大きな賭けでしたが、運がよかったとしか言えません。ちなみに、その時採用した人たちは今でも一緒に働いていますよ」。

子会社の設立で、制作体制を強化

アイ・エス・クリエイトロゴ

2003年には、有限会社オプティクスを設立した。プログラムの外注を依頼していた会社の社長が体調を崩され会社を解散するというのが発端した。そうなると、これまで一緒に仕事をしてきた人たちがバラバラになってしまうのは残念だと、それを繋ぎとめる為に新会社を作ったんです」。
それによって、実質、同社の専属のプログラマが増えた形になり、体制が大幅に強化された。

「ジャパニーズクオリティー・メイドインチャイナ」で、アジア市場を狙う

中国にて

2007年には、制作拠点として中国への進出を果たした。
「メビック時代から、この会社をどうやって生き残らせるかを考えていました。頼まれごとをやるだけでは下請けの粋を越えることはできない。何か特長を持たないと」。そこで漠然と考えていたのが中国進出だったという。
そんなある日、たまたま参加したビジネス交流会で奈良女子大の中国人の教授と出会う。
「まだ中国に関しては何の情報収集もしていないような時期でしたが、中国に興味があるんですと話したら、『じゃあ、知り合いに頼んで中国を案内させましょう、どこに行きたいですか』と返って来て。どこと言われても北京や上海はありきたりだし、他に聞いた事がある地名は…大連?大連に行きたい、かな?みたいなやり取りだったと思います」。ところが翌日には、電話がかかってきて「中国にいる夫が大連を案内します。いつ行きますか」とトントン拍子に話しが進む。
あまりの急展開に「中国には行ったこともないし、中国語も話せない。現地で誰も迎えに来なかったらどうしよう、誘拐されたらどうしようと、戸惑いながらも、とにかく行ってみることにしたんです」。
そんな心配を大きく裏切って、中国では連日のようにホテルの手配からIT関連の企業訪問のアレンジまでしてもらい、その訪問で出会った中国企業とは一緒に仕事をする関係に。中国進出のきっかけとなった。
「今後は、制作拠点としてだけでなく、マーケットとしての中国、アジアも狙って行きたい」と新氏。すでに担当している仕事の中で、国を越えて在庫を管理するシステムなど海外向けシステムの実績も少なからずある。「弊社は中国に拠点もあり実績もある。日本のクオリティーを現地で実現できるノウハウもできています。今後は日系企業の現地法人のニーズに‘ジャパニーズクオリティー・メイドインチャイナ’で応えて行きたいですね」。

日本の技術で、若い世代が夢を持てる世の中に

講演の様子

「チャンスには前髪はあるけど後ろ髪はない」と言われるように、「せっかく来たチャンスは通り過ぎる前につかもうとしなければ何も起こらない」と新氏。ひょんなことから中国に行ってみたり、思い切って人を3人も採用してみたり、解散するはずの会社を子会社にしたり。普通の人なら躊躇するかも知れないようなことをタイミングを逃さず実行してきたことが、後に考えると会社の成長につながっているという。「先ずはやってみる。やらないことには物事は進まない、ということかな」。

今、海外に出て気づくのはアジアの若い世代の元気さ。「これから豊かになるという希望が見えてみんなキラキラしている。そんな若者たちを見ると、閉塞感が否めない日本の社会を何とかしないと、と感じますね」。
「日本の活力の源は中小企業だ」といわれた時代に、日本を元気にすべく、中小企業のIT化を支援してきた新氏。「今度は、私たちの技術を使って‘日本の若い世代が夢を持てる世の中にするにはどうしたらいいか’ということを日々考えています」。

公開日:2012年08月10日(金)
取材・文:わかはら 真理子氏