情熱を“見える化”する「情熱ブランディング」。
エサキ ヨシノリ氏:情熱の学校

エサキ氏

関西を中心に、ブランド力向上セミナーや企業ブランディングを行う情熱の学校の代表・エサキ ヨシノリ氏は、「情熱ブランディング」という彼独自のメソッドをもとに企業ブランディングやコンサルティングを行う情熱ブランディング・プロデューサーだ。その守備範囲はモノづくり系中小企業はもちろん、街のケーキ屋から個人で活動するクリエイターまで幅広い。今回はエサキ氏の幼少時代や広告代理店に勤めていたサラリーマン時代、現在活動しているライブセミナーなどについてお話をうかがった。

親の夢を託されてアメリカ留学へ。

子どもの頃は、目立ちたがり屋で演説させたら先生よりも全然上手で、学校の中でもリーダー的な存在だった。もちろん広告代理店という職業どころか、言葉すら知らなかった。
「全く勉強しませんでしたね。当時の担任に『三浪してどこかの大学に入れたら、逆立ちして素っ裸で大阪中歩き回ったるわ』と言われるほどでした(笑)」

だが、当時は急激な円高が進行しており、それがエサキ氏の進路を左右する。
「ある日、父が何を思ったのか留学のパンフレット片手に『お前、海外に逃げろ!』って(笑)。僕も『アメリカ留学ってモテるかも!?』って思って行くことにしたんです。実は、父が若い頃にアメリカ留学したかったらしくて。だから、親の夢を託される形で留学したんです」
アメリカの大学では美術部を選考。毎日油絵を描いていたという。そして、就職を考える時期になると日本に戻って就職する事を選んだ。
「帰国準備をしながらどんな仕事をするか考えていた時、知人のお姉さん(クリエイター)が広告代理店で仕事をしていると聞いて、さらにタレントさんと仕事できるかも??そんなミーハーな気持ちもあって興味を持ったんです」
日本に戻り就職活動を行って、無事に広告代理店から内定をもらうことができた。

日本の広告代理店に就職し、外資系広告代理店に転職。

取材風景

希望の広告代理店に就職したエサキ氏だが、タレントが絡むような華やかな仕事はなかった。
「日本の広告代理店では9年働いたんですが、最初の3年は新聞広告を売りに、ひたすら毎日飛びこみ営業をしていました。東京都内全てのビルに飛びこみ営業をしていました。成績も良かったので、少々調子に乗っていた頃でもありますね(笑)」

そして、留学で養った英語力を生かせる場所を求めて、外資系の広告代理店に転職することに。
「ボスも外国人ですし、同じ広告代理店でも全く違う雰囲気でした。担当した会社は某ミュージシャンを使ったCMなど、派手なキャンペーンを行っていて、まさに憧れていた理想の仕事でした。でも金額はゼロが1個増えるし、外資系広告代理店は営業マンがそのプロジェクトのリーダーになりますから、時には100人以上をマネジメントすることもありました。ストレスでいつも胃が痛かった」
しかし、この外資系代理店で学んだ企画書の作り方や戦略の考え方、プロジェクトのマネジメント方法などが「情熱ブランディング」の礎となっているという。
「日本の広告代理店では、飛びこみなど日本的広告代理店の攻める営業の手法を、外資系代理店では戦略的にどうクライアントをマネジメントするかや、守る営業の手法を学びました。どちらも貴重な経験でしたね」

大いなる挫折と、そこから脱却するカギ“情熱”。

セミナー風景

外資系代理店に転職して1年後、実家がある大阪に転勤してさらに大きなクライアントを担当することに。しかし、クライアントが大きくなるほど、広告や企画の中身よりも“大人の事情”や部署間の力関係が優先されがちになり、エサキ氏の心の中には矛盾が渦巻きはじめた。そんなある日、妻が自分が担当したCMが放送された時にテレビの音量を下げるのを目撃してしまった。
「妻に罪はないんですが、その瞬間に『俺はそんな仕事をしているのか』と思ったんです。それでも普通の人は家族を養うべく働くんでしょうが、僕は心が完全に折れてしまった」
結果、会社を休職してしまう。会社以外に自分の居場所を見つけられない日々の中で、気分転換になればと、はじめたウォーキングの途中、街路樹の葉の隙間からこぼれてくる陽の光を感じた時、それは起こった。
「“情熱”という言葉が突然自分の中にドーンと降りてきて、『これ以上背伸びする必要ないやん』と感じたんです」

そんな時、ある勉強会に誘われて行ってみると、独立したクリエイターや中小企業の社長が集まっていた。
「そこで印刷会社の社長が自社の宣伝チラシを見せてくれたんです。今思えば本当に失礼な話ですが『これで客が来ると思ってるの?』と思うチラシだったんです。でも、彼らなりに熱い思いで作っていて、伝え方がわからないだけだと知りました。この熱い人たちに自分の経験やノウハウを伝えられたら良いかな、と思った瞬間に“情熱”という言葉が再び頭の中をよぎって、目の前の状況とリンクしたんです。この人たちの“情熱”をブランディングすればいいのだ、と」
目指す目標が生まれたエサキ氏は会社に復帰し、仕事と並行して独立準備を進めた。そして2年半後に独立。こうして大いなる挫折を経て『情熱の学校』は生まれた。

情熱を“思い出してもらう”バンドセミナー。

今後、エサキ氏は「情熱ブランディング」をどんな戦略で広げていくのだろう。
「まずは地元関西で実績を積み上げることです。現場で活躍する40〜50歳が、伝えたいことを正しく自分の言葉で伝えられるようにしたいですね」

また、バンドを組んでライブとセミナーを一体化したライブセミナーも始めた。
「きっかけは“情熱ブランディング”のセミナーをしている時、ある人から『我が社みたいに情熱が無い会社はどうしたらいいの?』と聞かれたんです。でも、情熱が無いんじゃない、日々の会社運営などで見えなくなっているだけなんです。だって情熱無しに会社経営なんてできないでしょう?そこで、右脳に働きかけないと情熱は呼び戻せないと考えて、音楽に乗せて語りかけることにしたんです」
今後はクライアントの職場や工場でのファクトリーライブを増やしたいという。
「事前にその会社の問題をヒアリングした上でそれを解決する社歌を作り、それを社員と一緒に歌うんです。会社全体が一丸になる姿を想い描いて始めたんですが、やっぱり一丸になるんですよ(笑)」
一度離れたところから自分や仕事を見つめ直すことも大事、とエサキ氏。
「みんな若い時は好きな音楽や遊びがあったはず。人生には寄り道も大切なんですよ」

ライブセミナー風景

公開日:2011年07月11日(月)
取材・文:株式会社ショートカプチーノ 中 直照氏
取材班:株式会社明成孝橋美術 孝橋 悦達氏