現地取材で培った“真実の大阪論”
岡村 雅之氏:岡村編集工房

「『どのページを開いても、“大阪的要素”がギッシリ詰まった誌面を作りたい』。その一心で、来る日も来る日も『“大阪的要素”とは何ぞや?』と自問自答しながら、ネタ探しに大阪の街をとにかく歩き回りました」と語るのは、大阪市の外郭団体・(財)大阪市都市工学情報センターが発行する情報雑誌『大阪人』の元編集記者・岡村雅之さん。誌面を飾る活字と写真の背景に、どれほどの現場取材を積みかさねたことか。赤ペンで真っ赤に染まった愛用の大阪市道路地図が、誌面づくりへの執念を物語っている。

大阪で得た初めての成功体験

岡村氏

昨秋までの8年間『大阪人』の編集業務に携わったことで、ますます大阪という街のとりこになった岡村さん。生粋の“大阪人”と思いきや、富山県で生まれ育ち、大学からは東京という、大阪とは縁もゆかりも無い幼年期・青年期を送ってきた。大学卒業後は東京の編集プロダクションで編集記者として雑誌づくりに携わった。そこでは取材現場に赴くことも少なく、原稿のほとんどは事務所の机に座り、電話取材と既存の資料を参考に完成させていた。そんな“無駄を省いたスマート”な仕事スタイルに、岡村さんはどうも馴染めなかった。また、スタッフの主流派が早稲田・慶応大学の卒業者。彼らは、「同窓の後輩に当たるから…」という理由で学者や知識人の取材依頼を簡単に受け入れてもらえる。しかし明治大学卒業の岡村さんの場合、知識人に取材依頼してものらりくらりとかわされ、悔しい思いをしていた。やがて、それが劣等感となり、3年後、自分の新たな居場所を求めるべく、編集プロダクションを営む知人を頼って大阪へ転居する。そこで待ち受けていたのは、思いもよらぬ歓迎と賞賛の声だった。
「仕事仲間に、『さすが東京で働いていた人だけあって、岡村さんが考える見出しは垢ぬけてるわ』なんて褒められてうれしかったですね。僕にとって、編集記者として初めての成功体験でした。『これを天職にするぞ』とそんな気持ちになりました」。
この体験が、前職場で培われた劣等感の殻を打ち破り、編集記者として生きてゆく決意を岡村さんにさせた。

真実は現場にある

大阪人

大阪へ移り住んで以来、編集プロダクションで5年間、夕刊紙3紙を18年間渡り歩いた後、2002年からは『大阪人』の編集業務に携わることになる。
『大阪人』は、「『大阪人も知らない大阪』発見マガジン」をコンセプトに、大阪の地に育まれた歴史や文化を独自の切り口で取り上げた、一般書店で販売されている定価580円の月刊誌。ここ数年は「大阪24区」をテーマに掲げ、北区や中央区などの観光・商業エリアだけでなく、すべての区を順番に取り上げていっている。全100ページという同価格帯の競合誌に比べるとかなりボリュームが少ない分、内容のおもしろさで読者に興味を持ってもらおうと毎号、編集スタッフが知恵を振り絞り、誌面を構成する。岡村さんを含む3人の編集スタッフは道路地図を片手に現地を訪れ、そこに暮らす人々の日常風景から「大阪文化」を汲み取り、斬新な切り口で誌面に落としこんだ。
「『文化』と聞けば教科書に書かれている、小難しいイメージを抱きがちですが、堅苦しく考える必要はありません。『文化』とは言わば、街のカラーであり、街そのものなんです。
街を歩き回ってそこに暮らす人々の生活に触れることで、その地で育まれた文化が浮き彫りになる。だから、机の上でキーボードを叩いたり、資料を拡げたりするだけではダメ。現地を訪れるのが一番なんです。とにかく私たち編集スタッフは、街中をくまなく歩き回りました」。
こうして岡村さんは自らの足で街を歩き、生身の人間と触れ合いながら大阪の街を体感していった。

枠にはまらない大阪の街

取材風景

『大阪人』の編集業務に携わるまで、世間の多くの人々と同様に岡村さんも、大阪を「人情に満ちた野暮ったい街」とイメージしていた。しかし、『大阪人』の誌面づくりのために、街なかを歩き回るうちにそのイメージがどんどん変化していった。
特に印象的だったのが、阿倍野区阪南町に堂々と陣取る長屋。そもそもこの街は、大阪府が人口で世界の名立たる都市に肩を並べた昭和初期、“大大阪”として隆盛を極めたころに開発された、当時のニュータウンである。寺社や銭湯、商店を近隣の地域だけでなく遠方からも呼び寄せるともに、当時としては近代的な建物の共同住宅「長屋」を建設した。
取材で現地に訪れた際、その光景を見て、岡村さんは衝撃を受ける。「長屋」と聞き、古く狭い家屋で貧しいながらもたくましく生きる人々という浪花節に出てきそうな雰囲気の街並みをイメージしていたのだが、実際はホワイトカラーの中産階級が住む豪華な建物だった。この都市開発を機に上阪し、成功を収めた地方出身者も多く、現在でも当時に負けず劣らず華やいだ雰囲気が街全体に漂っている。
「自分の固定概念には収まりきらない、大阪って面白い街だなぁと感動しました」。
新たな一面を発見するたびに、ステレオタイプな大阪のイメージが打ち砕かれ、岡村さんの中に新たな大阪のイメージが生まれていった。

勝敗を決めない風土が人を育てる

岡村氏

自分の才能を開花させてくれたことから、大阪の街を「インキュベーション施設」と岡村さんは例える。
大阪の街には、型にはまらない多様性がある。この柔軟な考え方こそが人を育てると岡村さんは考える。例えば大阪の街を歩くと、お客さんのリクエストに応えていたらメニュー数が膨大に増えたという飲食店や、親から子へ、子から孫へ、代替わりするごとに洋食屋、和食料理店と家業をコロコロ変える飲食店に出くわすことがある。経済学的に考えると、効率が悪く決して有益とは言えないが、実際にこうして経営を成り立たせてきたところは意外と多い。飲食店ひとつを取り上げてみても、店主ごとにさまざまな考え方、方法があって、理論上で成立しなくても、実際に成立させているケースはあまた存在する。
「大阪の街は、かくあるべきという一つの物差しで物事を決めつけないんです。それぞれを尊重し、優劣をつけないから、勝者も敗者も生まれない。この許容力こそが、地元で生まれ育った人はもちろん、上阪した人々や僕のように東京で苦い経験をして、大阪へ流れてきた人間にチャンスをくれるのだと思います」。
メディアを変えながらも、30数年間、自分の足で駆けずり回って掴んだ岡村さんの大阪論には、自身を認め育ててくれた大阪の街への感謝と尊敬の念がにじみ出ている。

公開日:2011年01月07日(金)
取材・文:竹田亮子 竹田 亮子氏