最終目標は子どもの頃に描いた未来の実現化
秋吉 勝也氏:(株)ECS

秋吉氏

「僕は起業家として、世界を変えるとか、悠々自適に暮らすために、金儲けをしたいなんてことは思ったことがありません。子どもの頃に描いていた未来像を現実のものに近づけたい。そのための方法をずっと追い求めてきた感じですね。」

現在、株式会社ECSを経営し、webを軸としたクロスメディアソリューションで企業のプロモーション戦略を行う、秋吉勝也さん。しかし、今の事業もあくまでプロセスであり、目指している未来ではないと言う。
秋吉勝也さんが描く未来とは“火星”での未来。

「こんなことを言うと、鼻であしらわれることがほとんどなんですけどね。」

彼の未来へのプロセスは大分で暮らした子ども時代、人工知能を持つロボット、ヒューマノイドを創る夢からはじまった。

物心ついた時から、ロボットに興味を持った。実家が電器店を営んでいたということもあって、機械いじりが得意で、小学校3年生頃にはアマチュア無線に興味を持ちはじめるような子どもだった。
当時の担任の先生は社会の授業で、日本の企業の規模や株式投資について話を聞かせる様な変わった人だったが、彼自身も家が商売をやっていたこともあり、ビジネスで成り立つ社会の仕組みにとても興味を持ったと言う。

「小学校の4年の頃、飲料販売のビジネスを思いつき先生に相談すると『おもしろいからやってみろ』と言われ、先生が大人に話をつけてくれたり。5、6年になると手先の器用さを買って、民芸品加工の仕事を回してくれたりもしましたね。」

小学生ながらにビジネスの面白さを体験しながら、人工知能を持つロボットを創りたいという夢を持ち続けていた彼の前にコンピュータが登場する。

中学入学と同時期に第一次パソコンブームが到来。町の大きな電器屋に行ってはパソコンにコマンドを入力し、プログラムに没頭する日々を送りながら、人工知能を創るには、コンピュータが欠かせないと確信した。

確信はしたものの、コンピュータを学ぶためにはどうしたらいいのか?
高校進学を目の前にして、コンピュータのスキルを身につけるための道筋など誰に聞いても判らない。情報処理という言葉を頼りに県内の商業高校に進学するが、入学して直後に選択の間違えに気づく。

「商業高校で学べるコンピュータでの情報処理は簿記なんですよね。今なら普通科から理工系の大学に行けばよかったということが、僕の田舎では高校を卒業すれば就職するというのが常識だったので誰も知らなかった。」

高校2年になると就職を前提にしたあらゆる周囲の動きに、このままだと僕は退屈な未来しか手に入れる事ができない、と思った秋吉さんは、まずは東京、そして最終的にはアメリカを目指そうと、バック一つ抱えて原付バイクで家を出た。

「5万円ほどを握り締めて、あの田舎町を出たときの爽快感は忘れられないですね。」

しかし原付でアメリカを目指すという無謀な計画。軍資金はすぐに底を付き、なんとか稼ごうと入った枚方のパチンコ屋で原付も盗まれ途方に暮れた。

不本意だが、たどり着いた大阪で、食べていくために働いた。
それでもパソコン、ロボット、人工知能に一歩でも近づくために、今できる仕事をと、ファックスの組み立て工場、街の電器屋、オーディオプランニングの会社などあらゆる仕事についた。学歴がない分を補うため、現場で知識を身につけては、ステップアップを繰り返した。

大阪で足留めされて5年、コンピュータを使うノンリニア編集が入ってくるだろうと映像の編集会社に入った頃、Macというコンピュータの話しを耳にした。パソコンはプログラムをする道具から、デザインやCGなどを処理できる道具に変わっていたことに衝撃を受けた。
映像編集の仕事は続けていたが、プログラムは得意ではない。このままだと本当にやりたいことができない。

「目標は変わっていない、軸もぶれていない。様々な知恵と手段を使って未来のステージを目指してきたが、コンピュータが進化するスピードと自分のスピードに大きな差がついていたと実感したとき、この先どうしていいのかわからなくなっていた。ロボットも人工知能も、もっと進化した別のイメージが想像できるが、自分だけでそこまで到達できるかわからない。」

念願のアメリカへ!


映画制作会社の集合団地にて

「その頃、アメリカでソフトウエアビジネスやデジタル技術を駆使した映画、インターネットが普及しはじめていました。自分がやりたかったのはこういうことだ!」日本にもこの波は来るなと感じた秋吉さん。

アメリカに行く!と決め、1年でお金を貯めてロサンゼルスに飛んだ。
大分を出てはじめてのアメリカ、しかも英語は片言。アポなし突撃訪問なのでどこに行っても門前払い。
結局2、3社は見学できたものの、肝心な部分は企業秘密。それは当然のことなのだか、サプライズな出会いもあった。


映画特撮会社デジタルドメイン社訪問時

1994年にモザイク・コミュニケーションズを設立し、同年にネットスケープコミュニケーションズに社名を変更した超有名企業の会長ジム・クラーク氏と話しができたのだ。
素性の判らない日本人をランチに誘い、自らの話しを織りまぜながら気さくに話しを聞いてくれた彼の「俺だって落ちこぼれで、何もないところからはじめた。やろうと思ったらなんでもできるよ!」という言葉に勇気をもらった。

未来を現実にするために起業!そして進化する未来を見すえて

帰国後、お金は一銭もない状態だった。Macで映像制作をしよう、Macがあればインターネットもできるから、そこでwebの基礎を覚えてwebビジネスに転身しようと考えて、再度映像系の会社に入社した。

昼は企画系の仕事を中心にスキルを磨き、会社に泊まり込んで夜中から朝方までインターネットに没頭した。

1998年に念願のMacを購入。日本でのインターネットブームとともに起業を決意。準備期間を経て2000年6月に創業した。

「創業当時はお金はないし、お客さんはいないし大変でした。」

とにかく自分でなにかお金にすることを考えないといけない。まず手始めに、アメリカから帰国直後にフリーペーパーで提供していた、アメリカ永住権の抽選・申請代行をホームページではじめ、またドロップシッピングのビジネスを考え、商社やメーカーに売り込んだ。

そのうちに評判を聞きつけたディレクターや企業から、集客効果型のホームページの企画制作を依頼されるようになり事業として動き始めた。

2007年には株式会社ECSとして法人化。制作会社ではなく、webを活用した『クロスメディアソリューション』をメイン事業とし、マーケティングや集客の仕掛けなどのコンサルティングを行うようになる。

取材風景

「商品販売や集客に困っているお客様の仕事だけを引き受けるというスタンスで事業を展開してきましたが、企業テーマでもある「ホビー」「ソリューション」「コンプレックス」という3つをキーワードに、今後はソーシャルメディアを活用した独自のサービスもいくつか展開していきたいと考えています」
ロボットや人工知能にはもう興味がないのだろうか?
「いえいえ、そのために今、自分が得意で出来ることを事業として展開してるんです。情報通信の分野は、僕が思っているロボット産業に近い将来関わり始めると思います。さらにその先には平和的な宇宙開発へとつながると思います。子供の頃に描いた未来に近づくことを諦めたことはないですよ。」
あくまでも最終目標は子どもの頃に描いた未来の実現化。人工知能を持つロボットから平和的な宇宙開発へ。そのプロジェクトに参加するまでは死ねない、生き続けると語った。

公開日:2010年08月10日(火)
取材・文:株式会社ルセット 松本 希子氏
取材班:株式会社PRリンク 神崎 英徳氏