日本から世界へ! クリエイターはもっと海外市場を意識して
森山 正信氏:森山写真事務所

森山氏

商業写真のクリエイターであり、専門学校で写真家のタマゴを教えている森山写真事務所の森山正信さん。その一方、縁あってブルネイ王国とかかわり、日本との親善の輪も描いておられます。「日本のクリエイターは、国内だけでなくもっと世界へ」と、第一線で活躍するフォトグラファーでありながら、ブルネイを一つのチャンネルに日本のクリエイターが海外へ羽ばたくことを期待されています。
そんな森山さんに、写真との出会いからブルネイとの縁、日本のクリエイターに望むことなどをうかがいました。

酢酸のツンとしたニオイが無意識下に?

森山さんが写真と出会ったのは、学園紛争が激しい大学生の頃。当時はストライキなどによって、たびたび授業が中止になるなど大学の教育現場は荒れていました。経済学部で学んでいた森山さんは、そんな荒廃した状況に嫌気がさして3年で中退。その後「何となく」写真専門学校の門を叩いたのが今日につながります。

けれど「何となく」といいつつ、「父親が写真を趣味にしていて家で現像やプリントをしていました」という家庭環境で育った森山さん。写真の現像や焼付けに欠かせない、酢酸の酸っぱいニオイは「子どもの頃からなじみがありました」といいます。本人は特別に意識をしていなかったものの、「後で思えば多少は影響してたのかな」と、無意識下に写真への道が刷り込まれていたのかも知れません。

ロケ専門でスタジオワークは学ばず

森山氏

当時の専門学校は「僕みたいに大学を中退した人などで年齢が高かった」といいます。教える側も若い先生が多かったそうで生徒と先生の年齢の差も僅か。「寺子屋のような感じで、密度の濃い学生生活でした」と振り返ります。

そんな専門学校では本科を2年、さらに研究科で1年と都合3年間学びました。学ぶコースはスタジオワークと屋外撮影の2つのジャンルに分かれていて、森山さんは屋外撮影のロケを選択。「朝から晩まで、カメラを担いで大阪の街を撮り歩いてました」と、毎日ロケに没頭します。その半面、スタジオワークの授業は「一回も出たことがないぐらい」とおろそかに。これが後に大きなハードルになります。

いざ、社会へ! 目指すは北海道の酪農家?

写真の専門学校を出ましたが、森山さんは「自分の中で写真は純粋なもの」と、それを職業にするつもりはありませんでした。「仕事は別なことをして、好きな写真が撮れればいい」。そんなことから、卒業後は大学時代に住み込みでアルバイトをした経験のある、北海道・根室の酪農家のもとで働きます。

牛40頭規模の酪農家。毎日、早朝5時からの乳搾りに始まり、それから日が暮れるまでは牧草刈り。夜は食事をして寝るだけ。また翌日は早朝から牛の世話……の繰り返し。動物が相手だけに休日もありません。「でも仕事がキツイとは思いませんでした。自然の中で働いているので毎日が気持ちよかったです」。

金銭的な現実に、夢を散らしてUターン

しかし、淡々と牧場での日々が過ぎる中、ふと、「自分はこのまま、ずっとここでこうしているのか」と、将来への不安が頭をもたげます。「酪農って大掛かりな機械も要るしお金がかかるんです。みんな何千万円もの借金をして、それを二代目三代目にわたって返していくわけです」。
「北海道に骨をうずめます」と宣言し、大々的な送別会で送り出されてから1年足らず。当地では見合い話も持ちかけられましたが、酪農の未来にヴィジョンが描けず大阪に戻ってきます。

その後、新聞の求人欄で見つけた制作プロダクションに入社。自分の好きな写真だけを撮り続けるという夢は捨て、企画の部門で「写真が仕事」になりました。その制作会社では野球選手の写真をTシャツにプリントした子供向けの商品を作っていて、森山さんは、そのための写真を撮影します。
春は九州のキャンプ地で撮影し、シーズン中は甲子園や後楽園、神宮など各地の球場で選手の姿を追います。「新聞社なんかのスポーツカメラマンに邪魔者扱いされながらでした」といいますが、写真を撮るのが森山さん本来の姿。「水を得た魚」のごとく夢中でシャッターを切りました。

どうする? 苦手なスタジオワーク

ところが、会社勤めの職業写真家となれば、仕事に選り好みはできません。専門学校時代におろそかにしていたスタジオ撮影の仕事もやってきます。「スタジオワークなんかぜんぜん勉強してなかったでしょ。だから、スタジオで撮影があるとなると、学校に行って先生に『こんなのどうやってライティングするんですか?』と聞きながらやっていました」。
また、貸スタジオでの撮影ではスタジオ付きのアシスタント頼み。「偉そうに『こんな撮影をしたいからライティングしてくれる』と、全部アシスタントさんにやってもらっていました。ズルイですよね」。苦手なスタジオ撮影は、万事こんな調子で切り抜けていました。

しかし、当然のごとく壁に突き当たります。「技術的な勉強をしてないので行き詰るわけです」。結局、その制作プロダクションは4年ほどで辞め、とある写真家のスタジオに入って写真の勉強のやり直しです。

長い下積みを経て独立へ

スタジオ

「修行」で入ったスタジオは、「ファッションの撮影も多く、海外ロケにも連れて行ってもらったりで楽しかったです」と言うものの、零細の個人事業だったこともあり「経営的には厳しいのがあったようです」と、薄給だったこともあり2年で転職。次に百貨店の仕事をメインにしているスタジオに入って、さらに研鑽を重ねます。

しかし、スキルが上がってキャリアを積んでくると、職場でのポジションも変わってきます。「チーフでやっていると自分の下に5?6人の若いカメラマンがいるわけです。そうなると、僕は打ち合せとかディレクションの方に回るようになって、だんだん現場から距離が出てくるようになったんです」。
森山さんは「撮影の現場にいたい」という思いがあるのに、会社が期待する役回りは違う。「これはマズイなと感じました」。そんなことから退職を申し出ますが、引き留めや引継ぎなどで、結局、10年目にして退職がかないます。ないがしろにしていたスタジオ技術のツケも払い、長い下積みを経てようやくの独立です。

「仕事ゼロ」からのスタート

森山氏

当初は2LDKのマンション一室を借りてのスタートです。が、独立したというものの、それまで勤めていたスタジオはクライアントが一本のハウスエージェンシー状態。森山さんに回ってくる仕事まではなく、まったくの「手ぶら」での独立でした。
「作品集を作って、アド・プロダクション年鑑を見ながら1日10件とノルマを決めて片っ端から電話です」と、当初は営業、営業の毎日。「それこそ一から開拓するって感じでした」。そうするうち、代理店のディレクターと仲良くなったり、営業に行った先で営業先を紹介してもらったり。「プロダクション数珠つなぎ、みたいな感じで少しずつ仕事が広がって行きました」。

フリーになって最初に請けた仕事は、昔の知り合いを伝って得たある電鉄会社の沿線案内。「今のフリーペーパーみたいなのじゃなく大判の立派なヤツで、沿線の観光地にモデルさんを連れて撮影に行きました。で、撮影が終わったら夜は宴会です。当時は代理店の担当者もそんな楽しい企画ばっかりたてるわけですよ」。今ではあり得ない、大らかで、ゆとりのある広告業界を懐かしみます。

ブルネイ王国との縁

森山氏

森山さんのライフワークとも言うべき、ブルネイ王国との関わりは13年ほど前のこと。ブルネイ航空の代理店の人と出会い、関西国際空港への直行便の利用を喚起するためにブルネイをPRするパンフレットの撮影を請け負ったことが始まりでした。
森山さんはフジフィルムの協賛も得、何度も行き来をしてブルネイを撮りますが、肝心のブルネイ航空がわずか数年後に直行便を廃止してしまいました。仕事はそれでストップするものの、フジフィルムとは「写真展を開く」というのを条件で協賛を得ていたことから引くに引けません。その後も手弁当でブルネイを撮り続けるうち、自然と親しみや情が募ってくるようになりました。

のちに写真展を開き写真集も出して「義理」は果たしましたが、以来、ずっとブルネイとの関わりを持つようになった森山さん。
人口36万人、国土は三重県ほどの小さな国ながら、地下資源に恵まれた裕福で安全な国。豊かな自然とリゾートを前面に観光施策を打ち出していることから「ビジネスチャンスは十分にある」と見ています。とくに、「クリエイティブな面は遅れているので、ブルネイを軸に世界へ目を向けるチャンス」と、熱く語ります。「そのためには、まず交流を図ってお互いを知ること」。日本とブルネイ王国の親善に大きな期待をかけておられます。

公開日:2010年02月03日(水)
取材・文:福 信行氏
取材班:株式会社ライフサイズ 杉山 貴伸氏