人のやっていないことをやりたい。
牧渕 正尚氏:(株)ネオ・プロデュース
南森町にある小学校のそばのマンションの一室に、イベントやライセンスビジネスのプロデューサーとして活躍する牧渕さんの事務所がある。室内にはガッチャマンやマッハ号など往年のアニメポスターや、エヴァンゲリオンなどのフィギュアが立ち並ぶ。いわゆるアキバ風の方かと思えば、オシャレなチョイワル風のおじさんが出てきた(失礼)。今回は、そんな牧渕さんの事務所でお話を聞かせていただきました。
月の残業時間が130時間、そんな忙しさの中で
プレゼンテクが身についていった。
「学生時代はぜんぜん学校に行かずに、スキーツアーを組んでイベントを楽しんでいました」という牧渕さん。大阪芸大を卒業後、イベント会場の設計や企画運営をする会社に就職した。テント素材を貸し出し、会場の運営、デザイン、内装展示などプロモーションのお手伝いをする仕事だった。当時は市政50周年や100周年の記念事業が各地で行われ、博覧会が一種のブームとなっていた時代だった。
「ネクタイも何もせずにちゃらんぽらんな格好で面接に行ったんですけど、会長さんがこんなんも一人おってもええわなと言ってくれたみたいで(笑)。はじめての大卒のデザイナーとして期待されました。最初はパースを描けと言われても、三角スケールさえも知らなかったですね。当時の部長がとにかくオレの後ろについて覚えろ、と言ってくれて。デスクを使わず部長の後ろに立ってパースを描くための筆の使い方や色の混ぜ方、全部見て技術を覚えていきましたね」。
国内で30?40の博覧会がある中、牧渕さんは年間で4本もの博覧会を担当した。バブルの時期は100億円ぐらいコストをかけた博覧会も手掛けた。天王寺博覧会ではキャラクターも制作した。多くの博覧会を同時並行で行い、時間はほとんど足りなかった。月々の残業時間は130時間を超えていた。夜中に会社近くで夜食を食べ、数時間ほど仮眠をとって早朝で作業し、朝一番に営業に渡す資料をつくるといった生活だった。
「手を動かしながら頭を動かして企画書をつくっていたので、普通の人が10年かけて学ぶことを3年ぐらいでギュッと凝縮して学ぶことができたと思います。価値観の違う人たちに対して、自分のプランを通したいときはどうするか、その中で学んでいった感じですね」。
アニメのレーシングカーを現実のレースで走らせ、
アニメのキャラクターとファッションを融合させた。
1990年代終盤、博覧会ブームは終わり、テーマパークや商業施設の仕事が増えてくる。牧渕さんの多くのクライアントはファミリー向けの施設だった。手塚プロのキャラクターやタツノコプロのキャラクターを使い、キャラクタービジネスの面白さを感じたのはこの頃だった。
「ある国際アニメーションフェスティバルで、タツノコプロの当時の社長だった九里さんからブースをまかせてもらったのですが、そのとき調子にノって自分にもっとまかせてもらえませんか? と提案しました。ちょうど会社の40周年ということもあってその話に乗ってくださいました」。
その提案とは、本物のレースでマッハ号(マッハGoGoGoに登場するマシン)を走らせること。企画は実現し、車雑誌にマッハ号の連載タイアップも実現した。レースクィーンのコスチュームやイヤリングにもその世界観を演出した。
さらにアパレルブランドのルシェルブルー(LE CIEL BLEU)からは、デザイナーのハン・アンスンの手によって、ガッチャマンやあくびちゃんのキャラクターをモチーフに使ったデニムやTシャツを発表させ、様々なメディアに取り上げられた。ガッチャマンのヒロインなどはセクシーにアレンジされていた。
「当時は前代未聞でした。タツノコプロのキャラクターを扱う部署の方も目を丸くされていました(笑)。でもこういうのは絶対必要でした。イメージをダウンさせてはいけないけれど、そのままではお子さんにしか売れない。これからは大人向けにしなきゃいけない」。
狙いは的中した。大阪・堀江のハン・アンスンのショップではタツノコシリーズの商品を取り揃え、ジーンズが4万8000円と決して安いとは言えなかったものの、オープン前から女性の列ができていた。
「これは市場としてアリやなと思いました」。人のやっていないことをやりたい。でも気をてらいたいわけではない。ファッションに関心のある層とアニメに関心のある層が流入することで、新しい市場が広がると確信した。
東京は大好きだけど悔しい。
関西で勝負できるコンテンツをつくっていきたい。
現在はネオ・プロデュースという会社を立ち上げ、アニメーションのコンテンツや制作者自体をプロデュースして、新しい仕掛けを提案している。
「タツノコプロのキャラクターを数多く手掛ける九里一平さんのコンテンツプロデュースを手掛けています。さらには映画監督の北村龍平と組んで日本のコンテンツをハリウッドで発信することも考えています」。
世界に向かって日本のアニメコンテンツをいかに露出するか、たくさんの引き出しを使って考えておられる牧渕さん。しかしなぜ大阪なのだろう。
「東京は大好きなんですけど、悔しいんです。東京の打合せで名刺交換すると『あ、僕も大阪出身なんです』とか『僕も大阪芸大です』『なんや後輩やん!』といった会話をよくしています。東京にいればなんでも早いし、すぐにお金になるし、メンバーもたくさんいる。でも関西でも大阪でもやり方はあるよ、と言いたいんです。一気につくるのは無理にしても、こちらで用意できると思う。この2年間の間に関西のコンテンツをつくりたい。東京で活躍している関西人が多いように、関西は人材の宝庫だと思うんですよ、だから実現できると思う」。
取材班は牧渕さんの話をお聞きするたびにワクワクし、何かお手伝いできることは、と模索した。このみんなを巻き込む力こそ牧渕さんのパワーの源なんだろう。これからの関西のアニメーションがどう変わっていくのか楽しみになりました。