クライアントの哲学を反映したものづくり
ダニエル・レオン氏:マインドフリー(株)

ダニエル氏

長堀橋のオフィス街にあるビルの一室。広く明るいオフィスでは、十数名の若い社員さんたちが和気あいあいと働いている。訪問者に気づいて扉の方を向いたいくつもの顔のうちのひとつ、大学生といっても通用しそうな青年がダニエルさんだった。

マインドフリーは、ウェブサイトやモバイルサイトの戦略立案、構築などを手がける会社。香港で生まれ育ち、17歳以降はカナダで過ごしたというダニエルさんが、なぜ日本で会社を立ち上げるに至ったのか。起業までの軌跡、事業に対する想いをうかがった。

香港からカナダ、そして日本へ

ダニエルさんは1976年に香港で生まれた。当時の香港はイギリス領。1990年代に入って中国への返還が近づくと、返還後の情勢に不安を感じた住民たちは海外へ新天地を求め、移民ブームが起こる。そんななか、ダニエルさんの家族もカナダへの移住を決意。すでに大勢の親戚が住んでいたというトロントへ引っ越す。ダニエルさんは17歳だった。

「トロントは本当に何もないところで、基本的に退屈でした(笑)。高校卒業後、現地の芸大へ進んでファインアートを学んでいたのですが、ファインアートで食べていくのはむずかしい。ちょうどそのころ、香港の友人たちとチャットなんかをはじめてインターネットに興味があったので、ウェブのことを学べる専門学校へ入ったんです」

ダニエル氏

専門学校のマルチメディア学科でウェブサイトの構築や3D制作などを学ぶ一方、世界中から集まる留学生とも親しくなった。日本人の友人も多く、毎日のようにカフェに集まっては楽しい時間を過ごし、日本語を勉強した。そうして身につけた日本語が、ダニエルさんを日本へ導くことになる。

「専門学校を卒業しても、カナダで就職する気はなかったんです。やっぱり、アジアで仕事してみたかった。僕はそのころ、趣味で世界中のデザイナーを紹介するウェブサイトを運営していて、たまたま日本でも有名なデザイナーと知り合いになったんです。彼とチャットで雑談していて『就職先を探してるんです』って言ってみたら、『じゃあウチで働けば?』となって。彼とは直接会ったこともなかったんですけど、トントン拍子に話が進んで高松にある彼のデザイン事務所に就職することになりました」

いろいろな仕事を経験したい

ダニエル氏

カナダから高松へ。高松にありながら、クライアントはほとんど東京だったというそのデザイン事務所には、たしかなセンスと技術を持ったデザイナーが大勢いた。ダニエルさんは尊敬できる上司のもと、ウェブデザインの仕事に取り組むことになった。

「すごくいい会社で、ずっとここにいてもいいかなと思う反面、まだ若かったのでデザインだけではなくいろいろな仕事に挑戦してみたいという気持ちもありました。1年間ほど働いて考えた結果、転職して大阪へ行こうと決意しました」

高松から大阪へ。ウェブコンテンツの企画制作をする会社に転職し、ウェブサイトのアートディレクションを担当することになった。ウェブの知識はカナダの専門学校時代にみっちり修得していたし、デザインの審美眼は前職で養っている。ダニエルさんはアートディレクターとしてめきめき頭角をあらわす一方で、当時の日本ではまだ一般的ではなかったSEO対策などの新しい技術を海外の友人から仕入れ、社内でレクチャーした。そこでは2年半勤務したが、信頼していた上司の異動がきっかけで再び転職することになる。

「たまたま飲み会で知り合ったITベンチャーの社長に声をかけられ、彼の会社で働くことに。僕が長年お世話になっていたチャットソフト『メッセンジャー』を独自開発する日本で唯一の企業だという点に魅力を感じたんです」

ところが起業したばかりの会社は資金も人材も足らない状態で、なかなかソフトの開発が進まない。まず潤沢な予算を確保しなくてはいけないと感じたダニエルさんは、資金を調達するため自らウェブ事業部を立ち上げ、もともと取引のあったクライアントに人材採用の専用サイトを作らないかと提案する。

「採用サイトといっても、ただきれいなサイトを作るだけでは効果がないと考えました。良い人材を確保するには、利用者に企業の理念や社風、歴史を知ってもらう必要があると思い、クライアントの社史を何度も読み込み、数え切れないほど会社へ足を運んでヒアリングし、各部署の特徴を洗い出したんです」

そうして完成した採用コンテンツは適正に企業を表現していると評価され、日経BPの全国採用サイトの8位に入賞。ダニエルさんのもとには次から次へと採用サイトの制作依頼が舞い込み、一気にスタッフを20名も増やした。

「大手企業からの依頼が増えたり、採用サイト以外のコンテンツを企画するようになったりと、事業は拡大していく一方。僕はウェブ事業部の事業部長として、事業計画から営業までありとあらゆることをやりました。すごく楽しかったし、仕事に対するモチベーションも高かったけれど、ひとりで事業を引っ張る社内体制に少しずつ限界を感じるようになったんです。収益構造の高い事業にするためには、もっと多くの優秀なプロジェクトマネージャーが必要でした。そこで、マネージャーばかりの会社を作ってみたいと、独立を願い出ました」

相手のことを知り、尊重する


『飲茶』トップページ

入社して3年後に独立を果たし、2006年9月にはマインドフリーを設立。これまでと同じくウェブ・モバイルサイトの企画から運営までを手がけているほか、2007年に独自のシステム開発を行い、ウェブ2.0機能を備えたコミュニティプラットフォーム『飲茶』のOEM事業を開始した。

マインドフリーの事業展開は広く浅いのではなく、広く深い。

ダニエル氏

「たとえばクライアントのひとつの課題をウェブで解決できたとしても、必ず次の課題はあるはずなんです。ウェブに関するすべての課題を一本化して引き受けることができれば、こちらもうれしいし先方のコストカットにもつながります。日頃からクライアントの立場になって考え、相手との理解を深めていれば、次は何を提案してあげればいいのかがおのずと見てくるはず。プロとしてウェブサイトを企画するからには、高い技術や美しいデザインを提供するのはあたりまえじゃないですか。大切なのは、クライアントの哲学をいかにものづくりに反映するか。僕はすべてのクライアントの広報担当者になれるほど相手のことを知っていますよ(笑)」

2つの大陸を渡り歩き、気がつけば日本で会社を興していたダニエルさん。今は大阪に家族やたくさんの友人を持ち、大阪が大好きだというものの、「大阪は保守的な部分も多く、土地のことをよく知っていないと商売できない」と苦笑いするひとコマも。もしかしたらこの人は、大阪人よりも大阪のことを知っているんじゃないかと思えてくる。

相手のことを知る。相手を尊重する。それは、クライアントだけではなく、自社の社員に対しても同じ。経営者としてのそんな姿勢は、異色の経歴を持つダニエルさんの生き方そのものなのかもしれない。

公開日:2009年02月17日(火)
取材・文:岸良 ゆか氏
取材班: 北 直旺哉氏