行動力と人柄でいろいろなものをつなげ、面白いことを生み出していく
高橋 武志氏:takeshi factory

takeshi factoryという屋号で活動している高橋武志さん。その名の通りデザイナーやディレクターの枠にとらわれずに自分のキャラクターとネットワークを活用して、WEBサイトの運営やartist bookの制作・販売など、さまざまなものを創り出しています。今回は、その多彩な分野に才能を発揮している高橋さんにお話しをお伺いしました。

出会いの連鎖により、音楽からアートの道へ

ピアノ演奏中の高橋氏

クラシックピアノを学ぶために高校卒業後、単身アメリカへ留学。音楽院に通いながら地元のハイスクールでも学んでいた高橋さん。そこで彼の運命を大きく変える出会いが待ち受けていた。ハイスクールでは、必須科目を受けつつ美術科目で陶芸クラスを選択。「陶芸の先生が日本人びいきで、とてもよくしてもらいました。その先生にハワイ出身の日系アメリカ人陶芸家『トシコ タカエズ』さんを紹介してもらったんです」。アジア系の人種が認められにくいアメリカで成功を収めているトシコ タカエズさんの話を聞き、アートに対する関心が高まったという。その頃、高橋さんはピアノにおける自分の実力に限界を感じていた。ベストを尽くして人前で弾いても、納得いく演奏ができない。さらに自分よりも優れた技術力を持つ人々を目の当たりにしてしまった。高橋さんの気持ちはいつしかクラシックピアノからアートへと移行したのもの不思議ではない。「もともと美術が好きだったし、祖父も父も絵を描くんです。自分だけやらせてもらえなかった」。高橋さんの素質の中にあった“アート”という種が、アメリカという土地や陶芸の先生、トシコ タカエズさんと触れることで芽吹いた。「音楽もアートも自分を表現できることにおいてはそう違わない」。高橋さんはアートの道を歩みはじめる。

目標に向かって進む日々から一転、突然の帰国

高橋さんはハイスクール卒業後、ペンシルベニアの美術学校に進学し、銅版画をメインにファインアートを3年間学習する。そして、さらに高いレベルをめざしSan Francisco Art Instituteへ編入学。その中で徐々に“キュレーター”という夢が大きく膨らみつつあった。その目標に向かい、ニューヨークのギャラリーでインターンをし、大学院進学を視野に入れるなど、思いつくかぎり積極的に活動した。しかし、その夢は突然断たれることになる。
大学卒業後もアメリカに残りたいと考えていた高橋さんは、ビザを取得するために弁護士を雇うなどして準備を整えていた。それが大学側の書類の不備でアメリカに入国できなくなってしまったのだ。「胃潰瘍になりましたよ。アメリカに残るために自分の力を出し切って、コネクションをつくったり、一年前から書類の準備をしていたのにもかかわらず、大学の不備で残れなくなるなんて…」。アメリカで働き、生活する道を断たれた高橋さんは、心にダメージを受けたまま27才で帰国することになった。

アート<仕事、やりたいことができない日々

高橋氏

帰国後、ショックを引きずりながらも再びアメリカに戻ることを決意し、ソフト開発などを手掛けるベンチャー企業で働きはじめる高橋さん。仕事ではグラフィックデザインに携わりながら、プライベートでは版画やartist bookを制作するなどアート活動に取り組んでいた。しかし、帰国後間もない高橋さんには日本でのネットワークがあるわけでもなく「どう動いたら自分が考えていることが実現できるのかわからなかった」という。また、アメリカの生活とは違ってアート活動より仕事のウエイトが重くなり、「あれもしたい、これもしたいけど、何もできない」という気持ちがもやもやした時期を過ごすことに。グラフィックデザイナーを3年勤めた後、IT関連の会社を経て、大手企業の関連会社で再びグラフィックデザインに携わる。その間も仕事の合間を見ては版画に取り組み個展を開くが、それでもまだまだ「自分のやりたいこと」と「仕事」のバランスが釣り合わないでいた。そんな時、高橋さんはふと気づく。「グラフィックデザイン、たとえばポスターやDM、新聞広告にしても大勢の人に見てもらえる。自分の名前がでるわけではないけれど、ある意味“アート”かなと。いろんな人に知ってもらえるし、自分から発信できる。そう思うと、自分の中で折り合いがついて、仕事も楽しめるようになりました」。

自ら行動することで不可能を、可能に

高橋氏

日本に戻ってきた高橋さんが実感したことは、「積極的に動かないと自分が思う面白いことはできない」ということ。そんな彼が思い描いていた「人と絡んで何かをしたい」を実現したのが2004年。自分の足で会場を探し、アーティストを集めたイベントを安藤忠雄氏設計の宝塚造形大学大学院(梅田キャンパス)の4階ギャラリーで開催する。「アーティストが普段つくっている作品を持ち寄って展示するようなイベントにしたくなかった。この場所でやる意味や、ここでしか見せることができないもの、この場所のパワーを感じて、そこから生み出されたものを展示したい。だから場所に関連したお題を出し、それをジャンルの違うアーティストの方たちに表現してもらいました」。イベントは成功し、その勢いのまま2回目を京都の建仁寺の禅居庵で「マリーアントワネット」をお題に、3回目は2008年12月27日、京都の永運院で「極楽ツアー」をお題にしてイベントを実施。版画や写真、陶芸、インスタレーション、ダンス、音楽など多彩なパフォーマンスが繰り広げられた。それもすべて高橋さんのバイタリティと人柄に魅せられて集まったアーティストたちによるもので、国内のみならず、ニューヨークやパリからも参加したという。「日本に帰国して10年になりますが、アメリカ生活を含めてこれまでやってきたことが、無駄じゃなかったとやっと思える。少しずつカタチになってきたかな」と語る高橋さん。自らが行動することで“不可能”と思われることを“可能”にすることが、高橋さんの魅力であると実感した。

いろいろなものをつなぐコミュニケーター

トートバック

「takeshi factory」を設立する前に広告代理店で営業を経験した高橋さん。理由は「世の中では、どういう価格で取引されているのか、デザイナーではわからない部分が多かったので、それを知らないままではいけないと思ったから」。その影響からか、独立した高橋さんのもとにはさまざまな依頼が寄せられ、上海国際映画祭?日本映画週間のメインキャラクターの作成や、『銀河鉄道の夜』でおなじみのKagayaスタジオ公認サイトのデジタルコンテンツに関する運営・管理、さらには会社案内やオリジナルキャラクター、artist bookの制作など、携わる仕事は多種多彩である。高橋さんは「肩書きに困る」という。しかし、彼には肩書は必要ないと感じた。あえてつけるとすればコミュニケーター。いろいろなものやテーマで、人と人、人と文化、モノとモノを引き合わせている。次はどんなものを引き合わせて、面白いモノを生み出すのか、とても楽しみだ。

公開日:2009年01月09日(金)
取材・文:株式会社レグ 三島 淳二氏