永遠にこっそり売れ続けたいんですよ(笑)
:ハピネス☆ヒジオカ氏

関西の雑誌やフリーペーパーであのイラストを見ないことがないと言われるほどの多くのメディアに出没するイラストレーター、ハピネス☆ヒジオカさん。「普段ひきこもりですよ」と語るヒジオカさんを、外に連れ出しネホリハホリ聞かせていただきました。

インドネシアの方たちが、背中を押してくれた!?

デザイン系の工業高校に通い、なんとなく絵を描く仕事がしたいと考えていたヒジオカさん。卒業してすぐに、繊維会社の系列会社に入りテキスタイルデザイナーの仕事に就いた。

「当時、ペイズリー柄や花柄をひたすら描いていましたね。いっこうにうまくならずにダメ出しばかりもらっていました。活躍できる場と言えば、誰かの送別会の寄せ書きを描くときの似顔絵だったんです。異常にニーズが高く、ボウリング大会とかのチラシをつくるときだけみんながニコニコしてくれていました(笑)」。

ヒジオカ氏

転機は海外で訪れる。「インドネシアに繊維工場がありまして、上司に一ヶ月間同行してみろと言われ、現地の人と働くことになりました。宿舎ではインドネシアの方と中国の方とインドの方といっしょに住むことになり、インドネシアの女の子のお手伝いさんと運転手さんが付くという、20歳にしたらびっくりなポジションでした。そこでも現地の方の似顔絵を描いていて、彼らの話を聞くと、一ヶ月の給料で絵の具がやっと買えるぐらいなんだそうです。『こういう仕事が日本にあるのなら、できる環境にいるのに、なんでそれをやらへんの? 私たちにはわからない』と、言われまして。確かにできるのならやったほうがいいと思って、帰国した次の日に辞表を出したんです」。

そして求人広告の会社に入社することになる。「毎日、求人広告を制作していたのですが、記事にイラストを添えることができたのがうれしかったですね。一般の広告もちょこちょこさせていただきながら、ちょっとだけ外部で頼まれたイラストを描いていたんです。制作部の中でも部下がつきはじめ、自分で制作することなく発注をかけて、自分が外部の会社とのパイプ役になりはじめました。それでフリーになることを決心しました」。

イラストレーターになったものの、気が弱くて営業に行けなかった。

先輩の会社の仕事を 2年ほど手伝う。「ちょっとずつ、ぴあさんやエルマガさんから仕事がいただけることになって、その事務所を辞めて、イラストレーターになったわけですね。本当に気が弱くて今まで営業に行ったことがないのです。もうびっしょり汗をかきながら出版社に行きました。トレンディドラマが流行っていた頃なので、シャレたイラストが全盛のときでした」。

作品取材風景

描けるのであれば何でも描こうと考え、会社案内のイラストやイラストマップなど求められているオーダーをこなしていった。自分のスタイルでイラストを描くようになったのは、ラフで送ったFAXから。「ラフの端っこになんとなく自分のタッチのイラストを描いて楽しんでもらっていたんです。ボケたりしていました。そうしたら、このタッチの感じのイラストを描けるの? と言われたりして、今のタッチに変わったのは3、4年ぐらいかかっていますね。エルマガさんでは、ルポをしてライターさんとともに歩いて地図を描いたりして、たぶんそのころからちょっとずつ変わってきたのかなという感じがあります。いつからか、好きに描いてくださいという形になりましたね」。

最近はイラストを描いているのか、落ちを考えているのか、どっちの比率が高いのかわからないと言う。「描いている人が読者にわからないほうがいいこともあるのかな、と思ってペンネームをハピネス☆ヒジオカに変えたんですよ。☆を入れたのは、つのだ☆ひろさんのメリージェーンがヒットチャートにのぼることなく、永遠に売れ続けているように、自分もこっそり売れ続けたいんです(笑)」。

ヒジオカさんが仕事をする上で決めていることは3つある。「間借りさせてもらっていた先輩の受け売りですが、『めっちゃ楽しい』『めっちゃ勉強になる』『めっちゃギャラがいい』、このひとつでも満たしていたらやってみようと思っています。すべてに対して全力で取り組みます。1案アイデアがほしいと言われても、5案ぐらい出すときもあります。決めかねている自分を出すのはあかんかもしれんけど、それが自分なので出すというときがありますね」。

リアルに人に見てもらえる楽しさを知った。

「こないだ個展をはじめて開催したんですけど、大きい絵を描くのがこんなに楽しいのかというのを知ってしまったのでやっかいやなと思ってしまいましたね。1m50cmという出力会社で一番でかいB0サイズで出したんです。それが楽しくて。リアルに人に見てもらえることがこんなに楽しいんかと思いましたね。ちょうど10年たってみんなから個展やってみたらどうやということもあり、区切りになりました」。

取材風景

10年を経て、壁がきたと感じている。「自分の描く絵が嫌で嫌で。そんなときに限って依頼がくるんですよね。奥さんからラフのほうが勢いがあったな、と言われだしていて、僕も薄々そのことに気づいていました。なんで本描きにしたら勢いがなくなるんやろ、ということに1年ぐらいすっごい悩んでいまして。ほかのスケッチをやっておられる方の本で、時間を決めて絵を描いておられるというのを読んで、今、実験的に30分と決めて、天満界隈をボールペンだけで描くというやり方ではじめています。また新しい何かが発見できるかもしれないと思っているんです。blogでコママンガを描き出したのも、模索の一環です。これも思いつくまま勢いのみでやっているんですよ。で、それで何か新しい変化が出せたらと思ってやっています」。

公開日:2008年12月24日(水)
取材・文:狩野哲也事務所 狩野 哲也氏
取材班: 福 信行氏 真柴 マキ氏 / 株式会社ビルダーブーフ  久保 のり代氏、株式会社ファイコム  浅野 由裕氏