クロスメディアとは、お互いの得意なものをクロスできる現場
(有)デベッソ 里居 正裕氏

Web と FM ラジオの融合『NETRIBE』

里居氏

深夜 2 時。海外音楽情報を満載し、DJ によるライブ感溢れる 2 時間が始まります。FM 放送としては珍しい、平日深夜の生放送『NETRIBE』。番組ホームページと連動、リアルタイム BBS などを通じてリスナーとの一体感が受けています。里居氏はこの番組を企画、制作、プロデュースする有限会社デベッソの代表です。

大阪で生まれ育つ

子供の頃は父親が営む運送業のため、港に近いトラックターミナルの上に家があり、通天閣が家の窓からまっすぐに見られたという大阪市大正区生まれ。とはいえ、トラックや自動車にはあまり興味がなかった幼少時代だったといいます。

万博で未来の世界を見たが…

里居氏

小学校の時に大阪万博で「未来を見た」少年は、それでも自分の未来については、特になりたい人物や憧れの職業などを抱かずに漠然とすごしたそうです。また中・高等学校の時も、友人が深夜ラジオなどにはまって行くのを傍で見ていた大人しい生徒だったようです。

目標の実現方法を友人から学ぶ

開眼したのは大学に入ってから。個性的な先生、多才な友人が周囲に多く、特にテレビ局にタレントを目指して出入りする友人が、明確な目標を持って周囲に宣言し、そのとおりに実現していく様子を身近に見ていて、「目標を実現するやり方」を目の当たりに出来たことがその後の里居氏に大きな影響を与えました。

横文字商売で才能開花

里居氏と伊丹谷氏
香港で活躍中のアーティスト
伊丹谷良介氏と

当時の大学生はマスコミを始め世間から何かともてはやされていた時期で、コピーライターやデザイナー、イラストレーターなどが「横文字商売」と言われ流行していたのと相まって、自然と競争意識が芽生えていたということです。里居氏も好きなイラストで大きな賞を取るなど、才能を開花させていきました。

媒体の世界を知る

卒業して大手スーパー関連の販促会社にイラストレーターとして就職しましたが、配属されたのは紙媒体の広報紙の制作編集。紙面に自分の絵を掲載させてもらうために、日本全国を取材して写真を撮ったり、文章を書いたり。当時印刷は写植の時代で、非常に地味な紙面づくりでしたが、関連施設を合わせて 100万部の発行をこなしていました。ちょうどこの時期からデジタル化の波が業界に押し寄せ、アナログからデジタルへの変貌する姿を経験できたことが後々、里居氏の強みの一つとなります。

ライターとして活躍

こうした経験を糧にフリーのライターとして独立。スポーツ新聞の文化欄の記事や企画を出していましたが、とある会社からアメリカでの仕事の誘いがあり、周囲の勧めもあって英語も十分しゃべれないまま渡米。サンフランシスコを中心にマーケットリサーチをする一方、自宅で日本国内の絵画などのアーティストを紹介するギャラリーを開き、記事を連載し始めました。里居氏26歳の時です。また、後にこの記事を編集したもの(『アメリカシンドローム 何が起きているのか』アイピーシー/1988年)が出版されるなど、数著が出版されました。

資金作りのために就職

プリズン・エクスペリエンス
『プリズン・エクスペリエンス』

また、この頃知り合った写真家モリー・カムハイの写真集『プリズン・エクスペリエンス』の日米共同出版をコーディネートするなど評価を得た里居氏は、自分で出版する喜びに目覚めましたが、この時点では資金もなく、ライターも抱えることができないと、資金を作るために帰国して業界紙を発行する新聞社に就職しました。

社内ネットワーク構築に従事

この新聞社ではライターではなく編集部に配属され、原稿整理と割り付け、さらに全国 20 数支局の記者をつなぐネットワーク化の担当に。この時にワープロを使った通信手段を駆使し、業界紙としてはいち早くデスクトップパブリッシングの導入に成功、社内での評価を得ると同時に、通信ネットワーク事業の面白さにも触れたようです。

音楽関係の出版業界へ転身

F2A
現在手がけている
アジアエンターテインメント誌
F2A

その後、アメリカで音楽業界に触れていた里居氏は、94年 6月に音楽雑誌の編集長に就任。モノクロ 48Pの創刊準備号をレコード店に置いてもらうところから始める、まさに一からのスタートでした。伝説のロック雑誌「ジェイロックマガジン」が大阪に誕生した瞬間でもあります。

出版業界での成功

里居氏の努力と知恵でこの雑誌は販売実績を急速に伸ばし、95年には一般流通の雑誌として創刊。その後、発行数 10万部まで一気に拡大しました。当時、人気グループに対しても媚を売らない編集姿勢が、業界やアーティストから高い評価を得ていたようです。

出版業界不況の影響で…

その後、東京にて編集代行業を開始。雑誌数誌の創刊に携わりましたが、出版バブルの崩壊と言われる業界全体を襲った不況のあおりで、当時の編集プロダクションは大手 IT 企業などに身売りするケースが多く、次々と出版社が閉鎖されて行きました。

スーパーでの勤務で体調を崩す

里居氏は編集・出版の世界を離れ、親戚が営む生鮮食料品スーパーマーケットのスタッフとして手伝うことになります。これまでと全く違う仕事と生活。仕入れや広告、商売のコツなどが勉強になったと言いますが、徐々に体調に影響が出始めるなど、好きなことを仕事にできていないストレスは相当だったのではないかと思います。

本来の自分のステージへ戻る

里居氏とスタッフ

体調などの理由からスーパーを離職。もう一度自分のやりたいことで仕事をしていきたいと思いましたが、4年半の間、かつてとは全く違う世界で生きていた里居氏にとって、以前の人脈を取り戻すのは困難だと思われました。ところが、ある会社の厚意で契約社員として東京に派遣され、そこでかつての人脈を訪ねた結果、本来の自分のステージに戻るしかない、と決断。里居氏の人間性を知る人たちに支えられて再び創業を考えるようになりました。

お互いの得意なものをクロスできる現場を創る

産創館の創業準備オフィスに入居した里居氏は、信頼できる仲間数名とデベッソを立上げ。有限会社にする手続を始めます。当初は構想だけであった事業が、仲間の得意な分野を集約していくことによって、徐々に具体化していったそうです。お互いの得意なものをクロスできる現場を創る。デベッソにはこうした理念があり、それがクロスメディアによる情報発信の原型となりました。

いつか必ずレーベルを持つ!

「ハロー! ミスタープレジデント」収録風景
『NETRIBE』の人気コーナー
ハロー! ミスタープレジデント
収録風景

放送・WEB・雑誌・イベントなどの媒体を軸に、音楽・美術・海外情報などを発信。特にアジアコンテンツを中心としたエンターテイメント系情報発信に自信があり、「計画性は元々ないけど、いつか必ず自分の音楽レーベルを持ちます」という里居氏。彼を応援する人達が集結して、企画からわずか数週間で開始された WEB とラジオの融合したクロスメディア第 1 号が『NETRIBE』なのです。そしてこの勢いで次なる企画が里居氏の心の中に湧き上がりつつあるそうです。

チャレンジャーズクリップ Vol.51 公開:2006年06月20日
取材 文:インキュベーションマネージャー 長川 勝勇

※2007年9月末に退所されました。

Copyright 2006 Mebic Ogimachi All Rights Reserved.