練り込んだ、吐き気がするようなアイデアスケッチの工程から生み出されるもの
Free-Field. 國松 茂良氏

デザイナー指向は家庭環境の影響

國松氏

デザインに目覚めたのは家庭環境の影響が大きかったと話す國松さん。父親が広告代理店のグラフィックデザイナーをしていたこともあり、高校生の頃からデザイナーになりたいという夢を持っていました。美大への進学に向け、高校2年生の頃から美大・美術系予備校に通い始めました。そこには浪人生が多く、中には3〜4浪の人も。5年のキャリアの違いは大きく、彼らから刺激を受けながら、デッサン、色彩、立体造形などの課題に取り組みました。高校3年の終わり頃には、平面ではなく、立体に興味を持ち始め、プロダクトデザイナーを指向することに…。

最初の挫折、そして克服

しかし、受験に失敗。一浪して再度志望校にチャレンジするもまた失敗。挫折を味わいました。滑り止めで入った某芸術大学インダストリアルデザイン学科。なんとなく最初の1〜2年はモチベーションもあがらず、あまり勉強しない学生に。でも、3年生になった頃から心を入れ替え、まじめに勉強をすることに。3、4年生時代は自分自身でもよく頑張ったなと思います。

10日間にも及ぶ入社試験

大学を卒業後、大手家電メーカーのデザイン部に就職。この会社のデザイナー採用の試験は10日間にも及ぶハードな内容。大学から1人だけ選抜されて受験。家庭用情報機器のコンセプトメイキングからプレゼンテーションまでの一連の作業を10日間社内に缶詰にされながら行うのが課題でした。結局、10数人の受験生に対し3人が採用となりました。

尊敬する上司との出会い


作品:砂の記憶

最初は情報機器事業部で、FAXやスキャナーのデザインを担当しました。まず、マイナーチェンジになる機器のデザインなどに取り組みました。大学時代はあまり人に影響される事なく自分1人でやってきたのですが、この会社で1人の尊敬する上司に出会いました。その人は元オーディオ事業部出身のデザイナー。1970年代オーディオ事業部は花形の部署。そこでデザインをやっていた方です。デザインに対する考え方や姿勢など多くのことを学びました。

練り込んだ、吐き気がするようなアイデアスケッチの工程から生み出されるもの


作品:触れ合う瞬間

インハウスのプロダクトデザインでは、1週間以上ずっとアイデアスケッチを描き続けることもあります。最初はアイデアが出ますが、3〜4日もすればアイデアは一旦尽きてきます。それでもアイデアを絞り出そうとします。そうしているとだんだんと吐き気をもよおすような感覚になりますが、最後に“ポッ”と出てくる時があります。壁を抜けた感覚というか、なにかが降りてきた?というか、つきぬけたものがでてくる瞬間です。こういうデザインは、ファーストインプレッションで出てきたものとは違います。最初の新鮮な気持ちの時にもいいものは出ますが、つきぬけたものはまだその段階では出ません。練り込んだ、吐き気がするような工程を経てはじめて出てくるものが本当に強いデザインです。日々の業務の中で絶えずこの工程をたどることは難しいですが、自分自身の作品をデザイン展に出す時などは、この上司のスタイルを今でも踏襲しています。

プロダクトデザインから文化施設の空間デザインへの転向


文化施設

大手家電メーカーに3年間勤務後、かねてから興味があった尺度が大きいものをやってみたいと思い、思い切って転職。文化施設の空間デザイン・施工会社に就職しました。家電メーカー時と大きく違ったのは、最初から全部任されること。入社直後、建設省のダム資料館のデザインに着手したのですが、ひとりですべて担当することに。また、空間系は、デザインに時間をかけないこともプロダクトとは大きな違いでした。プロダクトの場合だと、何回もデザインをしてはチェック・修正を繰り返す。それに比べ、空間は一発でOKを出し、設計に移行。最初はこのギャップに悩みました。入社してまもなく、企画コンペに参加し、プレゼンを行う機会がありました。プロダクトの場合は、プレゼンといっても数人の関係者が聞くだけの場合が多いのですが、行政施設のプレゼンであったために会場に入ってビックリ。何と20〜30人の関係者が自分のプレゼンを聞くことになっていました。十分準備もできていなかったので、結果は散々。今となっては笑い話ですが、良い経験をしました。

自宅の4畳部屋で起業

文化施設の空間デザインに12年間関わってきたのですが、行政や公共事業を取り巻く環境が変わったこともあり、自分のいた部署の先行きも少し怪しくなってきました。このままサラリーマンを継続するかどうか悩んだあげく、独立を決意。2004年4月に自宅の4畳の部屋で起業しました。幸い、文化施設のデザインに携わっていると、関係する様々な業界の方とのつきあいがあるので、従来パートナーであったシステム会社の方から大手制作会社を紹介していただき、今でも継続的に仕事を頂いています。

メビックとの出会い

そのうち自宅での事業に限界が…。京都府宇治市という郊外で起業していたこともあり、人と出会うことも少ない上、公私の区別もつきにくく、事務所を探していた時に偶然サイトでメビックに出会うことに…。

メビックが持つ場所のパワー

國松氏

メビックに来てからは、名刺の減り方が大きく違います。業務を発注できるパートナーも着実に増えました。従来は、自分ひとりのマンパワーしかなかったために、施設全体の企画を依頼されても対応が難しいと考え、クライアントには、シナリオ、平面図、スケッチなど自分のできることだけを伝えていました。でも、最近では、一括して受けて、関係者と一緒になって対応しています。これもメビックの持つ場所のパワーだと思っています。

海外にも視野を拡げて活動をし続けたい

インハウス時代は、ディレクション−プロデューサーとして動いてきたので、その経験値はありますが、独立したらサテライトになるものと思ってきました。でも、今は違います。信頼できる良いパートナーと一緒に、良い仕事をしたい。自分だけではできないこともパートナーと一緒に対応することで可能になると思います。現在、上海万博の展示企画にも携わっています。「国内だけに留まらず、海外にも視野を拡げて活動をし続けたい」と、國松さんは屈託のない笑顔で大きな夢を語って下さいました。


作品:左から「寄り添うひととき」「見つめ合うとき」「ごちそうの時間」

チャレンジャーズクリップ Vol.84 公開:2009年03月03日
取材 文:インキュベーションマネージャー 堂野 智史

2010年3月に卒業されました。

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